先に募集しておりました『第10回「つなげる、やさしさ。」健診・人間ドック体験記コンクール』の入賞10作品が決定しました。
本コンクールは、健康寿命の延伸に向けた取り組みの一環として、健診や人間ドックを受け、病気の早期発見や生活習慣の改善などにつながった体験、受診を通して感じたこと、思ったこと、伝えたいことなどをまとめた体験手記などを募集し、受診へのきっかけづくりとしていただくことを目的に開催しています。
今回、令和5年12月中旬から令和6年3月15日まで作品を募集したところ、県内外より170編のご応募がありました。たくさんのご応募、誠にありがとうございました。
入賞作品
最優秀作品賞 1作品
●ぴよぴよこさん(大阪府 三島郡)
未来への地図
優秀作品賞 3作品
●山本ジュンさん(東京都 清瀬市)
叫び
●M・Nさん(愛知県 尾張旭市)
二つのおめでとう
●落合恵子さん(兵庫県 宝塚市)
母が教えてくれた早期発見
JA全厚連特別賞 1作品
●角谷 まひろさん(北海道 札幌市)
そして命はつながった
佳作 5作品
●本田 美徳さん(大阪府 寝屋川市)
ブッチャーがくれたメール
●鈴木 大輔さん(鹿児島県 鹿児島市)
嫌味を言われたあとに
●りささん(愛知県 名古屋市)
未来を守る
●くじらのアイスさん(高知県 高知市)
母の言葉を胸に
●三宅 加代子さん(福岡県 飯塚市)
雲流れゆく
最優秀作品賞
「未来への地図」 ぴよぴよこさん
人間ドックを受け始めるきっかけや受け始める年齢は迷うものだ。私は、そのきっかけを20代で持つこととなった。29歳の時、母を末期がんで亡くしたから。母もまだ54歳という若さだった。常に明るく元気な母は家族の中の太陽だった。昔から風邪一つひいたことのない母。姉や私はよく風邪をひく子どもだった。風邪をひくといつも、温かな部屋の中に母の心配そうな優しい顔がある。部屋は薄く柔らかい陽が入るくらいに調整され、お昼頃になると鰹節のいい匂いがする卵のおかゆが出てくる。風邪なのに幸せを感じてしまうような、病気であるひとときが好きだった。滅多に病気にならない母だったので、私たちは看病したことがない。だから、母が倒れて救急車で運ばれたと父から連絡があったときは、携帯電話を落とした。手の震えが止まらなかった。父の声はすでに泣き声であった。医師は、はっきりと母に手術ができない状態にある。と伝えた。もう、その時には手術ができないくらいにがんが広がってきてしまっていたから。その時、父は血が滲むほど強くグーを握り、涙を堪えながら、「先生、どうにか、どうにかならないのですか」と絞り出すように、うなった。温厚な父のそんな顔を初めて見た。母は緩和ケア病棟に入り、痛みと戦いながら緩やかな時間を過ごすことになった。
忙しい仕事からも解放され、趣味の編み物をしたり、父の手料理を運んでもらって食べたり、それなりにゆったりと過ごした。そんな最後の幸せのような時を経て、病室から見えていた満開の桜が、葉桜になった頃に旅立った。私と姉と父は残された。というくらいの絶望と寂しさを抱えた。病気と戦いたい、ということさえ出来なかった母を想い、私たちは人間ドックに行こう。そして、早期発見したら病気とは戦っていこう。と決めた。
「一年に一回の母のお墓参りの日に、その結果を持ち寄って母に報告しよう」と約束した。私たちが健康でいることの知らせを、空の上の母も喜んでくれると思ったから。
ある年、人間ドックの検診結果を持ち寄る前に姉から電話がかかってきた。姉が「子宮頸がんが見つかった」と言った。姉はまだ30代前半だった。私はパニックになり、「いやだ、どうして、お姉ちゃんまでいなくなるなんて嫌だ」と言ってしまった。姉は冷静に
「私はね、とっても早い段階で見つけることができたの。医師も、手術で大丈夫と言ってくれているから。心配し過ぎないで。私たちは早期で見つけて病気をやっつけるために人間ドックを受けているのでしょ。だから、大丈夫よ」と優しく、そして冷静に私に言った。私はしばらくのパニック後に、自分の行動を恥じた。一番不安なのは姉なのに。私はどうしてあんな不安を掻き立てるような一言を発してしまったのだろうかと。姉は結果を見て、私に連絡するまでに、どれだけの不安と心配と心細さを感じていたのか計り知れない。でも、私と父を驚かせないよう、冷静に事実と未来への希望を伝えてくれた。姉の強さに私はまた感動し、涙した。
それから、私は少しでも姉に寄り添いたいと思い、姉に付き添い、精一杯の愛を送るようどんな時も手を握り続けた。姉の手術は成功した。そして、現在、姉は昔と何も変わらない笑顔を家族に振りまいてくれる。私たちは結婚して、子どもが増え、今では実家にたくさんの人が集うようになった。たった3人になってしまった家族が今は9人の元気に笑い合う家族へと変化していっている。現在でも続いている人間ドックの結果診断表を見せ合う会は、前向きな未来への展望書として大切にしている。
父も血圧が高くなったり、私も甲状腺の変化など少しずつの変化が年と共に増えてきている。しかし、私たちは未来への展望とともに対策をすることができている。現状を知ることは予防や対策の考えを持つことが出来るし、体調の変化に敏感に耳を傾けることもできる。私は未来への地図のように、自分自身で明るい未来を紡いでいくことができると感じている。そして大切な人たちの笑顔も守っているように感じる。母の病気のことを想えば、早くから家族が気づいてあげられれば良かったと思うばかりだが、母の愛は家族に、そして孫たちへと紡がれていき、今あるみんなの笑顔を守ってくれているのだと感じる。あの日、母とみた満開の桜の時期になる度に、心が寂しくなるけれど、そういう悲しい思いを、少しでも減らせるように、私たちは検診を受ける。未来は自分で少しでも良いものに変えられると願って。
優秀作品賞
「叫び」 山本ジュンさん
「これは非常に言いにくいのですが……」妊娠がわかった日。同時に子宮頸がんが見つかった。しかも高度異形成クラスV。『がんと想定される陽性』だった。「産前に子宮頸部の一部を切り取る手術を一回。産後には子宮を全摘します。でなければ」死ぬ。医師の言葉にそう感じた。とは言え去年のがん検診からまだ一年も経っていない。いつの間にがんは。果たして子どもは無事に生まれてくるのか。心配は尽きない。
「もうお医者様に任せよう」
病院からの帰り道。夫は言った。しかし、私はこのことを父に言おうか大いに悩んだ。妊娠だけなら「おめでとう」で済む話。でも病気も、となれば話は別。実を言うと母も7歳のときに同じ病気で亡くなっている。それもあって、毎年欠かさず検診を受けて来た。もし母と同じ『子宮頸がん』だと知ったら、父はショックで寝込んでしまうかもしれない。「オレより先に死ぬのか」と騒ぎ立てるかもしれない。ふと過る『死』の一文字。
「お前、がんなのか……」
案の定病気のことを知った父は言葉を失った。夫も「早期発見なので心配には及びません」とフォローした。それでも父は顔をこわばらせたまま、ショックを隠せぬまま、トイレに行くふりをして泣いていた。もう何も言えなかった。迎えた手術の日。その日は朝から周辺が騒がしかった。なんせ術前の処置をするナースたちがひっきりなしに訪れる。その慌ただしさが深刻さの証。
(私、本当に大丈夫かなあ)
ふと浮かぶ病床の母の姿。あのとき母はまだ20代だった。やりたいこと。食べたいもの。見たい景色。きっと、いっぱい、あった。私だってそうだ。このまま死にたくはない。わが子を無事に生みたいし、その成長を見届けたい。
その時だ。
「体調はどうだ?」
疲れ切った表情の父が現れた。おそらく心配で眠れなかったのだろう。目元には大きなクマができていた。
「大丈夫だよ……」
そう言いつつもどこか不安を隠しきれない。
すると父は「お前に聞かせたいモノがある」と小さなラジカセとカセットテープを取り出した。それは生前母が遺した肉声テープだった。
『みんなへ』
やわらかく、まあるい声。母だ。
『お久しぶりです。みんな元気にしてますか?このテープを聴く頃にはきっと私は天国にいるでしょう。お父さん、ちゃんと家事はできているかしら。洗濯物は色物と白物を分けているでしょうか。燃えるゴミは月曜日ですよ。何だかすごく心配です』
父はチッと舌打ちをし、バツが悪そうな顔をした。
『でもね。母さん、幸せだったの。それだけは伝えたくて。かわいそうなんかじゃないの。むしろがんだとわかったことに感謝してる。だって、こうしてあなた達に感謝を告げられるでしょう?お父さん、私をお嫁さんにしてくれてありがとう。子どもたち、私をお母さんにしてくれてありがとう。神様、がんを見つけてくれてありがとう。これからは天国からあなた達を見守っています』その声は、最後、涙で終わった。
メッセージを聞き終えると何とも言えない空気になった。確かにがんに冒された母の人生は短かった。でも母は人生そのものに感謝をしていた。何より「幸せだった」という言葉は遺された私たちの救いになった。
「お母さん、幸せだったんだね。あー、よかった!なんか元気出たー」
私が笑うと父もホッとしたように笑い、でもこみ上げる感情を我慢できなくて。花の水を変えるふりをして、こっそり、泣いた。
夕方。手術は無事に終わった。
あれから二年。あの手術を機に私は子宮頸がんの啓発活動に参加している。今や二人に一人ががんの時代。子宮頸がんは「マザーキラー」ともよばれ、20〜40歳代に多いとされる。しかしがん検診の受診率は未だに低い。本当に低いのだ。
この活動には毎月多くのがん経験者が集う。22歳で告知を受けた女性。妊娠と同時にがんが発覚した女性。がんと診断された後も子宮を残す選択をした女性。その一人ひとりの叫びが、がんキラー。私たちの「これまで」の経験が誰かの「これから」になれたらいいし、幸せな人生だったと思えたら、もっといい。今日も青空の下。街頭には威勢の良い声が響き渡る。
「もうマザーキラーで悲しむ人をなくすために、検診こそが悲劇を絶ち切るキラーです。あなたとあなたの大切な人のために、さあ。行きましょう」
優秀作品賞
「二つのおめでとう」 M・Nさん
二十代の頃、ウェディングプランナーとして働いていた。
「実はこの前、胃がんが見つかって」
打ち合わせの席で、そう打ち明けてきたのは、三ヶ月後に式を挙げる新郎だった。え、と思わず固まった。
新郎は、相手が固まる反応に、もう慣れてしまっていたのだろうか。
まだ初期のがんであること。来月入院し、胃の切除手術をすること。よほど結婚式は延期せずに済みそうなこと。顔色を変えることもなく、すらすらと説明してくれた。きっと自分自身、まだ受け入れられていない部分もあっただろうに。
突然の告白に、私は、ただ目を見て話を聞くことしかできなかった。
新郎は、まだ随分若かった。どうして初期で気付くことができたのか尋ねると、職場の福利厚生で、毎年人間ドックを格安で受けていたのだと言う。なるほどと頷くと、隣でずっと苦い表情をしていた新婦が、ここぞとばかりに私に語り掛けた。
「人間ドック、絶対受けたほうがいいですよ」
その瞳は真剣だった。最愛の人が窮地に立たされている新婦に言われると、これ以上ない説得力があった。聞けば新婦も、人間ドックを予約したそうだ。両親や、兄弟にもすぐさまお願いしたとのこと。
考えてみると、私が会社で受ける健康診断は、受診に一時間もかからないような最低限の項目しか含まれていなかった。身体測定、尿検査、聴力・視力検査、心電図、それに簡単な血液検査くらいだっただろうか。
これも何かの縁と思い、私も人間ドックを予約した。
まだ二十代前半の自分には、人間ドックにお世話になるのは先の話だと思っていたが、誠意を持ってお二人の式に向き合うための、ひとつの覚悟だった。
結婚式の二ヶ月前に、新郎の胃の切除手術があった。すっかり懇意になった新婦は、逐一、新郎の経過をメールで報告してくれた。
無事に手術が終わったこと。病院食を口にできたこと。かなり痩せてしまったが、新郎は元気なこと。結婚式の相談も交えながら送ってくれるメールに、どれだけほっとさせられたことか。
その後新郎は療養を経て、結婚式の前には職場復帰も果たしたという。
私の検診の結果も、幸い異常は見つからなかったが、どんな病気も他人ごとではなく思えた。健康であるという当たり前のことが、文字通り「有り難い」ことだと知ったのだ。
いよいよ迎えた結婚式の当日。これまでの新郎新婦や家族の胸中を思うと、より一層特別な日に感じられた。
冒頭の新郎からのスピーチで、初期の胃がんを患っていたことが、まず語られた。これは、新郎からの強い希望だった。
新婦側の列席者は、その事実を初めて耳にする方も多かったのだろう。披露宴会場の半分の空気が、ぴりっと凍り付いた。しかし手術を無事乗り越えたことが告げられると、会場中に安堵のため息が漏れていく。ハンカチで目を抑えるゲストも多かった。 検診のお陰で早期に発見できたことに続けて、新郎は、さらにこう付け加えた。
「今日を迎えることができたのは、ここまで支えてくれた、彼女のお陰です」
新婦は堰を切ったように大粒の涙を流し、会場中が温かな拍手で包まれた。
主役のもとに次々とお祝いにくるゲストは、誰もビールを注ごうとはしなかった。代わりにウーロン茶で乾杯をし、二つの意味で「おめでとう」を口にした。
会場の隅で、若い友人が「人間ドック、受けなきゃだね」と話す声が聞こえた。この会場に集った列席者は、新郎新婦にとって大切な方々ばかりだろう。新郎の勇気あるスピーチで、皆の心が動かされたのだと思うと、私まで心から嬉しかった。
もうかれこれ十年以上前の話になるが、今でも私は、定期的に人間ドックを受けている。カレンダーをめくり、思い出したように受診の予約をするのは、決まってこの結婚式が行われた月だ。自分自身も結婚したため、もちろん夫にもお願いしている。
胃カメラを受けるのは今でも苦手だが、あの打ち合わせでの新婦の真剣なまなざしを思い出すと、乗り切る勇気が湧いてくる。
健康は当たり前ではなく、「有り難い」ことだと教えてもらった。記憶の中のタキシードとウェディングドレス姿の二人に、心から感謝を送りたい。
優秀作品賞
「母が教えてくれた早期発見」 落合恵子さん
コロナの嵐が吹き荒れはじめ、世界中が灰色の世界になりつつあった2020年5月。市の広報誌を眺めていたら最後のページの「市民向けがん検診のお知らせ」という記事と目があった。当時はステイホームの大号令中。しかし「がん検診は不要不急の外出ではないです。自覚症状がなくても受けましょう。早期発見こそ大切です。」というキャッチフレーズに目が丸くなった。中でも「早期発見」という言葉が矢のように心にぐぐっと突き刺さって離れない。勤務先を退職し専業主婦になって以来、受けていなかった乳がん検診だったが、この年初めて市の検診を受けてみようと思った。今思い返せば、なぜあの矢が突き刺さったのか。あの日、よし検診を受けようと思わなければ、今頃どうしていたか。私は手遅れになっていたかもしれない。何の自覚症状もなかったのだから。
私は実の母親を卵巣がんで亡くしている。享年55歳。発見時すでにステージ4の末期がんで、開腹手術を試みるもなす術がなかった。私は長男を出産したばかり、母を亡くしたショックで顔面神経痛を発症してしまい、乳児を抱えての母のお葬式は、辛すぎてその記憶がないほどである。「手遅れ」という言葉にどれほど悲しみを覚えただろう。「早期発見」という言葉の矢が突き刺さったのは「手遅れ」の反対語だからだ。天国の母が私を守ってくれたとしか思えない。「あなた、きちんと検診を受けなさいよ」と、母が教えてくれたのだ。
市の乳がん検診はピンク色の大きなバスの車内で行われた。すごく痛いのではと心配していたマンモグラフィー検査は、女性の担当者で恥ずかしいこともなく、痛みも我慢できる程度だった。
検査後約3週間経って、結果通知を受け取ったが「要精密検査」の5文字に愕然とした。念の為詳しい検査をもう一回受けてね、という意味だろうとは思うが、かなり動揺してしまう。インターネットで調べると、要検査といわれても実際に精密検査をしたら、がんではないことも多く、そこまで恐れることはないという。その時、私の心の中の声は、「そもそも全く自覚症状はないし、検診にいかなかったことにして、この結果も見なかったことにして、来年もう一回この検診を受けてみて、もしまた引っかかったら、精密検査にいけばいい」と言っていた。今、この場ですぐに精密検査に行く勇気がなかったのだ。しかし調べた体験記の中に、とにかく一度精密検査を受けてみて「がんではない」と分かって生きていく方がずっとストレスがないから、ぜひもう一歩進むべき、という意見があった。一晩じっくり考えて「安心するために精密検査を受けてみる」という結論になった。家族のためにもそれが一番いいと思った。母親のことが頭から離れてはいなかった。病気の「手遅れ」は、本人も家族も同じくらいきつい思いをしてしまうことを知っていたからだ。
翌日、乳腺外科のあるところを探して、検診結果を握りしめて、勇気を振り絞って、初診の門をたたいた。あくまでも、問題ないという結果を得て、スッキリしたいという気持ちからだった。そんな私が担当医師から、本当のがんの宣告を受けた時は、「え、まさか。あらま、本当に?」という半分冗談みたいな受け答えで、心ここにあらず、の様子だった(と、思う)。引きつった顔で苦笑いしかできない私に、担当医師はもったいないほどの寄り添う気持ちを示して下さり、さまざまな治療方針を説明してくれた。標準治療のなんたるかまで。私もメモをしながら納得できるまで聞いて聞いて心を開いていった。そして母の話も打ち明けることが出来た。
あれから3年が経つ。私のステージ1の乳がんの手術は乳房の一部摘出のみですみ、経過も今のところ良好である。抗がん剤治療もなく、再発防止のためのホルモン剤の治療のみ現在も続いているが、生活の質はおかげさまで問題なく良い。「早期発見」がいかに大事か身をもって痛感している。体験記を寄せてくれたどこかの誰かにも感謝している。体験記をシェアすることでどこかの誰かの勇気になっているのだ。今日もどこかで誰かの背中を押してくれているだろう。
がんは自分一人の問題ではない。かけがえのない家族にとって、いやむしろ家族の方を悲しませる病気である。大切な人を悲しませないために、自覚がなくても検診に行こう。病気になることは仕方ない。理由もよく分からず人間は病を得る。それは悔しいことだし、無力感でいっぱいになることでもある。でも、なにか出来ることがあるなら今すぐ行動すべき。検診に行くことはその出来ることの大きな一つである。面倒でも、お金がかかっても検診には行こう。「早期発見」は、本人にもその大切な人にとっても希望につながる言葉である。ぜひ検診、人間ドックを定期的に受診しよう。大切な人と普通の日常を過ごす時間は有限なのだから。
JA全厚連特別賞
「そして命はつながった」 角谷 まひろさん
「人間ドック」
聞いたことはあるけれど、私にはまったく馴染みない言葉だった。
父の仕事の関係で、16歳までアフリカのベナンで育った。病院も薬もない途上国の山間部で、草や虫を煎じたものが薬の代わり。ワクチンもなければ、健康診断もない。
日本に帰国したとき、病院や歯科医院の多さに驚いた。診察するとすぐに医薬品が出る。
「これがG7の先進国なのか」
先進国と途上国のギャップを肌で感じた。医療だけではなく、水や電気のインフラ整備、冷暖房、水洗トイレ、舗装道路、交通機関、農畜産物や魚介類のなどの食糧、衣類、パソコン、スマートフォンなど、生活レベルの高さに、驚くしかなかった。
その後26歳まで日本で生活し、薬剤師の資格を取った。勉強がついていけず、高校で1年留年し、大学の薬学部へは1年浪人して、なんとか入学することができた。同級生は2歳年下だったが、みんな日本語がうまく学力水準ははるかに上だった。
大学で薬の勉強をするうちに、私はアフリカに戻って、薬のない人たちを助けたいという思いが強くなっていった。就職担当の先生に相談すると、あからさまに渋い顔をして
「最近はドラッグストアが海外展開しているから、しっかり就職活動するように」
たしなめられてしまった。
しかし、アフリカに出店しているドラックストアはない。
海外青年協力隊、国境なき医師団も、医者や看護師の補助として、日本から持参した薬を患者に渡すだけで、現地密着の薬剤師業務とは少し違う。
私は就職せず、アフリカに戻ることを決意した。先生も親も反対したが、ベナンで「村の薬屋
さん」のような仕事がしたかった。
薬は、市販薬を首都ポルト・ノボで購入し、それを小分けして村人に処方した。運転資金は学生時代にアルバイトで貯めた100万円と村人からの寄付でまかなっていたが、ほどなくして底つく。
土日にポルト・ノボでアルバイトして薬屋を続けた。それでも資金不足は解消されず、一週間に5日アルバイトして、土日を薬屋に充てるようになった。3年間休みなしで働いていたが、仕事が楽しく、このペースが心地良かった。
私の薬がきっかけで、医療職を目指す若者もでてきた。草の根の輪が広がってきた手応えを感じ始めたころ、日本から父の訃報が届いた。卒業してから一度も会っていない。
父は10万人に3人の悪性腫瘍で、判明時にはすでに末期で、手の施しようがなかったらしい。
親不孝な自分を恨んだ。
ふと「人間ドック」という言葉が頭に浮かんだ。
急いで帰国し、父に別れを告げた。やせ細った父に謝り、そしてお礼を言った。私は幸いにもこれまで大きな病気はなかったが、人間ドックを受けることにした。
受診する病院や検査内容を調べていると、女性特有の病気に特化したオプションがあることを知った。せっかく、初の人間ドックなので、女性向けのオプションも付けることにした。
検査結果は4日後に判明。1ページ目には「問題なし」の文字が続いていたが、ページをめくるとある項目に目が留まった。そこには、「子宮内膜症の疑い」と書かれていた。少し驚き、婦人科で再検査した。診断結果は同じで、「子宮内膜症の可能性が極めて高い」とのことで、大学病院で再々検査。思った以上に重篤で、子宮内膜症卵巣にはチョコレート嚢胞(のうほう)があり、加えて子宮筋腫や子宮腺筋症も併発していた。治療には手術以外の方法がなく、しかも嚢胞が大きくなっ
ているので、いっときでも早い手術が必要とのこと。私は動揺を隠せず、母に電話しようとスマホ見ると、父がほほ笑んでいた。
「父が私を人間ドックへ導いてくれたのだ」
これまで休みなく働き、健康診断すら受けたことがない。あらためて振り返ると、少しずつ毎月の生理痛がつらくなっていて、吐き気がすることも珍しくなかった。まったく自分を顧みない私を、父が自分の命を賭して、日本へ呼び戻してくれたのである。
落ち込むなかれ。私は最短での手術予定を入れた。
手術は開腹ではなく、腹腔鏡での処置ということだったが、腹腔鏡が入らない箇所があり、急遽開腹することになった。といっても、全身麻酔なので意識がない。
当初想定の4時間を大幅に上回り、6時間以上かかったが、手術は無事成功した。術後の経過も良好で、2ヶ月後には生理も戻った。
主治医からは1年は日本に残ることを勧められ、どうするか考えていたとき、ベナンから私の彼氏が来日した。彼は医学を目指し、日本への留学を希望している。
私はリハビリをしながら、留学の手伝いをすることにした。そして1年が経過したころに、身ごもった。
人間ドックで病気を発見し、治療したことで、赤ちゃんを授かることができた。つながっていく命、こんなに幸せなことはない。
ありがとう、人間ドック。
ありがとう、お父さん。
ありがとう、赤ちゃん。元気に産まれてきてね。
全世界の人たちが、人間ドックの受診ができることを、心から願っている。
佳作
「ブッチャーがくれたメール」 本田 美徳さん
旅立った友が最後にくれたスマートフォンへのメールがある。「しんどいです・・・」と。
昨年三月末に、私は三十八年間勤務した警察官を定年退職した。最後の三年間を京都の警察署で過ごし、職種は警務係という「何でも屋」だった。市民応接、留置場管理、署員への柔道の指導等、様々な業務の中でも一番のメインは全署員の厚生業務だ。定期健康診断の受入れ、高額医療費や限度額適用申請書等、署員とその家族の健康管理に資する事務手続きは難解で複雑だったが、縁の下の力持ち的なこの業務は遣り甲斐のある役割だった。
ある日、私のもとに一人の職員が本田係長に相談があります、と申し出てきた。
「僕は通院していて抗がん剤治療をしていますが来月から入院です。今日は病院で『職場で限度額適用申請をして下さい』と言われました。限度額適用申請とは何でしょうか?」
三十歳代でスキンヘッドのメガネをかけた彼は実直で言葉使いも丁寧だ。後で直属の上司に聞いたが、彼は警察官としても非常に優秀だという。不安そうに質問してきた彼に私は安心させるようにいった。
「心配するな。手続きは全部俺に任せとき。あんたは治療に専念したらいいんやで」
いけなかったが、つい彼の頭部に目がいった。抗がん剤の影響で頭髪は潰えている。だが私の視線を感じた彼は冗談のようにいった。
「僕、ブッチャーみたいでしょ?」
「え?そんなこと俺から、よう言えんわ」
彼がいうブッチャーとはスキンヘッドのプロレスラーで一世を風靡したアブドーラ・ザ・ブッチャーのことだ。きっと私が気にすると思って彼は自らおどけてくれたのだ。私は敢えて彼のその優しさに答えようと思った。
「おう。ほんなら、これからブッチャーって呼ばせてもらうで。いいんかな?」
「いいですよ。入院したら電話できない時があるんで僕のメルアドを教えておきますね」
こうしてブッチャーは再入院し、私と彼は抗がん剤治療の事務に関するやり取りを、メールを中心で行うことにした。
そんな時、私自身が定期健康診断の右耳の聴力検査で「異常あり」と診断された。そういえば時々、耳鳴りに悩まされる症状が以前からあった。しかし私の中では、たかが耳のことで、という侮りがあり、再検査にも行かずにいた。そのことをブッチャーに何気なくメールした。
(俺も引っ掛かったわ。まぁブッチャーに比べたら申し訳ない軽症やけど)
だが、気軽な返事を期待したブッチャーからの返信は私には意外な内容だった。
(だめですよ!お医者さんや看護師さんに聞いてみたら、外耳炎や中耳炎から脳炎という病気になることがあるそうですよ。ちゃんと検査に行って『係長も気をつけて下さい』)
ブッチャーがくれたメールには何故か最後の『係長も気をつけて下さい』という言葉が二回も送信されている。私は考え込んだ。『係長も』との言葉を言い換えれば、「僕は治療に頑張っています。だから係長も検査をして原因を明らかにしてください」との意味だと受け取った。それにブッチャーは私のことを心配してくれて、医師や看護師に症状を聞いてくれている。これが私の胸に響いた。
すぐに総合病院に検査の予約をして受診すると、結果は中期の中耳炎で医師からは、
「放っておくと難聴はおろか、耳から菌が進入すれば脳炎を引き起こしていましたよ」
と、ブッチャーのメールのとおりのことを告げられ、服用と点耳薬を処方された。
(ブッチャー。検査に行ってきたよ。行かなかったら将来は脳炎だったかもって)
ブッチャーからはすぐに返信があった。
(ね?安心したでしょう?これからも定期的に検査に行ってくださいね)と。
私が、(おお。ブッチャーの体調は?)と返した時、
(しんどいですね・・・)と返信されてきたのだ。
それがブッチャーからの最後のメールとなった。気を揉んだ私は何度か送信したが彼からの返信は来なかった。そして年末の寒い日にブッチャーは天に召された。
警察官達の同僚愛は深い。ブッチャーの人柄もあって葬儀場は同僚達で溢れかえった。
そんな中、私がブッチャーのお母さんから「ああ。あなたでしたか。励ましのメールを頂いて。いつもベッドの上で喜んでいましたよ」と、声をかけてもらった時、涙が止まらなくなった。苦しい中、ブッチャーは必死にメールを送信してくれていたのだ。
お焼香の時、心の中で語りかけた。
(ブッチャー。よく頑張ったな。天国でゆっくりしたらいいで。でも、もうメールはできないな。俺はそのことだけが淋しくて)
これからは検査にもドックにも行くことにする。それから周りに俺みたいに異常値が出た人がいたら、必ず行けって勧めるから。それがブッチャーと俺との約束やもんな)
約束を告げた時、遺影の中のブッチャーが少し微笑んでくれたようにみえた。
佳作
「嫌味を言われたあとに」 鈴木 大輔さん
「落ち着いて聞いてね。私、がんが見つかったの」
昨年秋、健康診断で母の身体にがんが見つかった。胃がんだった。翌週には近くにある大きな病院で検査をするらしい。母は奄美大島で父と二人暮らし。父も高齢であり、一人で検査を受けるのが不安だという。病院受診時には長男である僕の付き添いを希望した。
「分かった。なんとか調整する」
こんな時のため、僕は一八年前に東京から実家の近い鹿児島市へUターンしていたのだ。仕事は調整でき、何とか母の検査には同行できることになった。
十一月下旬の奄美大島は、本土と比べてとても暖かい。奄美空港へ降りた時、僕は身に付けていたジャケットを脱いだ。空港には父が迎えに来てくれた。
一時間ほどで実家に到着する。母は僕の顔を見た瞬間に、表情が崩れる。
「ありがとうね。帰ってきてくれて」
母は不安だったのだろう。笑顔の中に涙がこぼれていた。
僕たちは久しぶりに三人で食卓を囲む。だが、母の箸は進まない。
「不安で夜が眠れないのよ」
「あなた達も私がいなくなると、いろいろとしてくれる人がいなくなって大変よ」
僕と父は母の気持ちを受け止めた。
「早めに見つかって良かったね」
僕の言葉に母もうなずく。
「そうなのよ。主治医の先生もそう言っていたわ。やっぱり健診は大事よ。あなたも必ず毎年受けなさい」
なぜか、最後は僕が母から注意を受けるはめになっていた。だが、ようやく前向きな言葉を聞くことができ、僕は安心した。
次の日、病院で検査を受ける患者も多く、午前中では終わらず、午後になってからの診察となる。
「安心してください。がんは薄いようです。内視鏡で取れるかもしれません」
主治医の言葉に僕は安心した。がんの状況によっては、外科手術になる可能性もあったからだ。
外科手術は、体力的への負担も大きい。内視鏡手術ならば負担も少ない上に、身体へ傷も残らない。
「ただし、もう一つ検査をしてから判断しましょう」と先生は続けて話した。次の検査でがんの転移状態を調べるという。
次の検査は三週間後。次も付き添って欲しいという母の願いを聞き入れ、僕はその日のうちに鹿児島へ帰った。
そして三週間後、がんは転移していなかったことが判明した。
「先生、ありがとうございます」
母はハンカチで目を押さえていた。先生は内視鏡手術で大丈夫だと告げた。健康診断で、初期のうちに見つかったことが不幸中の幸いだったようだ。
「どこで治療されますか?当院でも大丈夫ですが、息子さんの近くでも大丈夫ですよ」
母は最終的に僕が勤務する病院での治療を希望した。僕は鹿児島市内にある総合病院で働いていたのだ。
そして、手術日前日、僕は空港まで母を迎えにいく。僕の顔を見るなり、「お腹空いたわ」という母を、僕は空港のレストランへ連れて行った。明日からしばらく食事ができない母は、好物の蕎麦を食べたいと言った。
「あなた達にこれからもいろいろとしてあげたいのよ。その為にも、孫たちが大きくなるまでは死ねないわ」
蕎麦をすすりながら話す母は、奄美大島にいた時とは別人のようだった。続けて「絶対に、元気になってみせる」と言った。
「じゃ、手術が無事に終わったら、今まで以上に援助をよろしくね。約束だよ」
僕の言葉に母は「任せなさい」と言った。
翌日、手術は成功した。一週間入院した後、母は無事退院となる。僕が空港まで送った時に母は言った。
「初めてあんたを産んで良かったと思ったわ」
母の嫌味を聞き、少しは親孝行ができたのかなと嬉しくなった僕だった。
佳作
「未来を守る」 りささん
「結果がよくなかったのよ。」そう伏目がちに話す医師の表情をよく覚えている。
2年に一度受けていた子宮頸がん検診。今回も「問題なかったですよ。」と医師に言われ、診察室を3分で出る想定しかしていなかった。すぐにがんセンターに行くよう紹介状を渡された。不正出血も痛みも全くなく、きっと何かの間違いだろうと思った。現実味のない話に、大ごとだな、とどこか他人事だった。
精密検査の結果、CTやMRIに腫瘍はうつらず、腫瘍マーカーも上昇していなかった。がんではない可能性を説明され、ほっとした。そうだよね、だって自覚症状もないし、まだ30代だ。念の為、円錐切除(子宮の入口を円錐状に切ってがんがないか調べる組織検査)をすることになり手術を受けた。
初期で見つかってよかったよと言いたかった。円錐切除を受けた2週間後、がんと告知された。私は32歳にして子宮と卵巣を失うことが決まった。
手術後、再発リスクを下げるために抗がん剤治療をすることになった。吐き気や味覚障害の副作用もかなり辛かったが、何より辛かったのは見た目の変化だった。お腹には大きな傷、脱毛して落武者のようになった頭。まつ毛も眉毛も抜け、生まれてから一番不細工だった。ここまできても、まだ実感はわかなかった。
がんの怖いところはこの先再発する可能性がつきまとうところだ。子どもはちょうど一歳になったばかり。私はいつまでこの子の成長を見られるのだろう。
もう少し早く見つかっていれば、と後悔もした。実はいろんな事情が重なって、検診は2年半ぶりだった。いつもは2年以上あけないようにしていたのに、今回に限って半年遅れた。半年早かったら、こんなに進行する前に見つかって、もしかしたら抗がん剤治療をしなくてよかったかもしれない。もしかしたら子宮も温存できたのかもしれない。今更、何を言っても遅いのだけれど。
手術で卵巣を切除したため、32歳にして閉経した。若年で閉経すると、骨粗鬆症や心筋梗塞にかかりやすくなるため、薬で女性ホルモンを補充している。そして、女性ホルモンの補充をしていると少しではあるが乳がんのリスクがあがるため、年に一回の検診が推奨されている。もうこれ以上の病気は勘弁願いたかった私は乳がん検診を受けたのだが、こちらもエコーで影が見つかり3ヶ月後の再検査になってしまった。しこりはない。乳がんであっても初期のはずだ。良性の可能性のほうが高い。それでも、再検査になったという事実が私を苦しめた。検診に行って見つかったばかりに不安な時間を過ごさねばならない。良性の腫瘍なら、知らずにいたほうが幸せだった。検診に行かなければ、こんなにモヤモヤすることもなかったのに、と結果を恨めしく思った。
検診でがんを見つけてもらった私でさえ、こんなふうに思うのだから、そうでない人はなおさらだろう。忙しくて時間を作ることができなかったり、病気が見つかることが怖かったり、病院に受診することが億劫だったり、検診から足が遠のく理由は人それぞれである。その理由も十分わかるのだけれど、それでも検診に行ってほしいし、行くべきなのだ。
もちろん検診は万能ではない。定期的に検診に行っていたのに、私は子宮と卵巣を失い、今後子どもを産むことはできなくなった。他の病気のリスクも同年齢の女性と比べて高い。それでも、検診に行ったことで、がんを発見できうる一番早い段階で診断できたのだ。精密検査にも引っかからないほどのがんを見つけてくれたのは検診である。もしあの段階で気がつかなければもっと進行していたはずで、再発率も高くなっただろう。
自分の未来が今よりもっと危うかったと思うとぞっとする。仕事を休んでちゃんと検診に行ったあのときの自分にも、がんを見つけてくれた医療機関にもとても感謝している。検診に行くことは「自分の未来を守る」ことだ。
強く言いたい。検診に行ってほしい。検診を勧めてほしい。忙しくても時間を作って行ってほしい。仕事に子育てに忙しいあなたこそ、守るものがある人こそ行くべきなのだ。その数時間が未来の10年20年を変えるかもしれないのだから。
佳作
「母の言葉を胸に」 くじらのアイスさん
また「問題」が見つかったらしい。私のことではない、母のことである。けれど父からの電話は、決して重苦しいものではなかった。今日の夜ご飯は何にするか?くらいの声色である。そして私も私で「ああ、そうなんだ。うん、わかった」程度の返事である。大げさに振る舞うでもなく、お互いに淡々としている。慣れとは恐ろしいものだ。
母の身体に問題が見つかったのは、もう何度目かわからない。おそらく両手の指の数ほどはあるだろう。問題の軽重こそあれ、その度に母は入退院を繰り返した。私が小学生のときはがんで、思春期にはC型肝炎ウイルスやらがんの再発やらで。そして私が大人になって家庭を持った今でも、時おり、木枯らし一号のようにそういう知らせがやってくる。そして今回は、悪性リンパ腫だったらしい。
振り返ってみれば「ああ、今年もまた人間ドックの季節がやってきたのか」と母は、半ば観念したような口調で、私によく言ったものだった。そしてもはや『異常がないかを検査する』というよりも『異常なところをわざわざ見つけに行く』というスタンスに近いとも言っていた。どうせ何かあるのだろう、それならさっさと済ませて治してやろう……と母は、人間ドックに行くときはいつも臨戦態勢のような心構えだったらしい。けれど、問題が見つかったら見つかったで、やはりその日ばかりは落ち込むようで「なんでお酒もタバコもやらない私が、いつもこんな目に合うんだろ……」と、弱気でもあった。けれどそれも束の間で、次の日にはケロっとした顔で「入院までに色々やるかー」と前向きな姿勢になっている。初めのうちは、家族に弱気な一面を見せるまいと気丈に振る舞っているのかなとも思っていたが、そうではなく、本当に色々やりたいと思っているらしい。
私は今回の母の入院で、一度だけ「人間ドックは怖くないか?」と聞いてみた。私は口には出さなかったけれど、心の中で『知らなくていいこともあるだろうな、本当は病気でも知らないままのほうが幸せなこともあるよな』と思っていた。けれど、母の答は意外なものだった。
「本当に怖くて不幸なのは、自分の身体の真実を知らない、もしくは受け入れないことよ。真実を知っていれば、対処できる。真実を受け入れていれば、自分も家族も心の準備ができる。でも人間ドックを受けず何も知らずじまい、受け入れるヒマもなかったら、ずっとまえに私がこの世からいなくなってて、お父さんもあんたも後悔しながら泣いてたと思うよ。私が病気でも強くなったのは、ありのままの真実を知って、自分の心と身体にきちんと落とし込んで、受け入れたから」
そう言われて、ハッとした。ぐうの音も出なかった。私は自分の無知が恥ずかしいと思った。人間ドックを受けたこともない、病気の当人になったこともない私が、何を偉そうなことを聞いているのだろうとさえ思った。そして同時に、母はなんて強いのだろうとも思った。考えてみれば、母の言う通りである。母は、入院してからも常に明るく前向きだった。そうした母の前向きに生きる姿勢を、なおのこと整えてくれたのも人間ドックであった気がする。良くも悪くも、現実を真正面から正直に突きつけてくれる。だから対処ができるし、本人も私たち家族も相応の準備ができる。母のように人間ドックの『常連』ともなれば、ある程度は覚悟の上だというから、なおさらその言葉に重みが増すのだろう。そして、母は人間ドックで明らかになった病気その全てを自身の中に飼いならし、乗り越えてきている。本当にスゴイ、としか言いようがない。
私も、今年で三十六歳を迎える。人間ドックを受けるには適齢であるらしい。妻と一緒に受ける予定ではあるが、母のように、異常なところを見つけに行くという感覚は、到底持ち得ていない。病気をしたこともないし、身体は動くし、適度な運動もしているし、よく寝ているし酒もタバコもやらない。傍から見れば健康体そのものである。けれど、多かれ少なかれ母の遺伝子を間違いなく受け継いでいる身体である。なるだけ虚心坦懐な心持ちで人間ドックに臨みたいと思っているけれど、それでも、いざとなると二の足を踏むだろう。そんなとき、母の言葉を思い出そうと思う。「自分の身体の真実を知らないことが、いちばん怖い」。これほどまでに説得力のある人を身内に持っていることは、私にとって、とにかく心強くてありがたい。
佳作
「雲流れゆく」 三宅 加代子さん
50歳を過ぎた頃から、私は誕生日を喜べなくなった。体や心の衰えを突き付けられているようで、嬉しいとは思えなかったのだ。ああまた一つ、歳を取ってしまったと、ため息をつく。それが誕生日の朝の私の姿だった。
けれども、それは身勝手で贅沢な感想だ。誕生日はこの世の幸福として、うけとめるべきなのだ。最近になってやっと私はそう想うようになった。
きっかけはある男性の言葉だ。それは仕事仲間であり、飲み友達であり夫の親友でもあった。快活で几帳面、仕事熱心な彼に異変が起きたのは55歳の時、がんが発見されたのだ。苦しい検査の末に得た結論は「余命3カ月、手の施しようがない」であった。「まだ、死にたくない」悲痛な叫びの裏には理由があった。娘の結婚が控えていたのである。
彼の娘は言った。
「3か月後に結婚したいのです」
母親を早く失い一人娘を男手一つで育ててくれた。その父に花嫁姿を見せてあげたい。
彼女はウエディングプランナーに相談した。
「結婚式は通常、半年から一年かけて準備するものです。厳しいですね」という返事であった。
彼女は諦めなかった。事情を話し、再考を頼んだ。経緯を知ったプランナーはやってみましょう」と返事をしてくれた。
慌ただしい3カ月が、過ぎようとしていた。ところが非情にも、父上は挙式を10日前に控えて天に召された。
「どうして!」彼女は天を仰いだ。寂しい悔しい思いが胸に突き上げてきた。
30年前私も同じようにがんを発病した。がんと聞いただけで私は死を覚悟した。人間ドックによる早期発見と医療スタッフの献身的努力により治癒した。今ほど医学は進歩していなかった時代だ。早期発見の大切さを思い知らされ、毎年人間ドックにお世話になっている。
今でもはっきり覚えている。私75歳。2021年9月23日の午後6時50分であった。急に胸が苦しくなった。夫へ訴えたが5分程度で発作は収まった。私は1日様子を見て明日にでも病院へ行こうと考えていた。
夫は「病院に行った方が良いのじゃないか」と言い彼の車で市内の病院へ行った。彼の判断は正しかった。
病院では検査があり、その結果を見た医師の表情が変わった。
「このままでは命の保証はできない。直ちに手術を行う。病名は急性心臓大動脈乖離です。手術には8〜10時間を要する。心臓からの大動脈が乖離(裂けて)し出血をしている。心臓を体外に取り出し、血管をとりかえる。もたもたしていると脳、肝臓、腎臓などへ血が流れなくなる。大手術です。ある程度覚悟をしていて下さい」。
麻酔を受け、もうろうとしながら、医師から夫への説明を聞いていた。
手術中控室で待機していた夫も、気が気ではなかった。もっと私に優しくしてあげればよかった。運よく助かれば心を入れ替えて接していきたいと反省ばかりであったという。
深夜の時間帯にも関わらず、医師はじめ医療スタッフの懸命な努力により私は助かった。
九死に一生を得る思いというのは、こういうことを言うのであろう。
結果論であるが夫の正しい判断がなければ、恐らく私は逝去していたであろう。夫が判断したのには理由があった。
人間ドックの結果心臓の血管に瘤があり、定期的に健診をしていた。異常があれば手術もやむなしの状況であったのである。
私「あなたが84歳、私が77歳。ここまでよく生きて来たわね」
夫「皆様に大変お世話になってきた。人間ドックと定期健診のお陰だよ」
「がんや動脈溜の発見だけでなく、生活習慣に対し、厳しい指摘を受けた。酒の量も控え、たばこもやめたよ」
私「糖尿病に注意するよう指摘を受けたわ。運動の大切さが理解できた。体重も減ったわよ」
夫「知人、友人へ定期的な健診を勧めるよ」
私「病気になって、初めて健康の有難さを知ったわ。食事ができる、歩くことができる。普通のことが普通にできる。このことが今輝いて見えるようになったわ」
「残り少なくなった人生。健診を受けながら世の中に役に立つことを考え、所作を正し、誠実に生きて行きましょう」。
夫は視線を空へ移した。上空には風があるらしく、一片の雲がゆったりと流れていた。